【第六回】克己 出羽海智敬自伝

出羽海部屋 背景色

(十六)

 私は特に求めて有名人に会ったとかいうことはない。しかし地味ではあるが、人とのいい出会いをしている。どういう運があったのか、相撲に入る時もそうだし、力士になってからもいい環境に恵まれていた。
 最初は前にも書いたが高校の担任だった福田先生。先生はスポーツの方で私を伸ばしてやろうという気持があったのだろう。巡業が来て、力士になるよう勧めてくれたのが福田先生である。私もすぐ決断してそのまま一行に付いて行って上京してしまった。
 入門してからの先輩たち、兄弟子にも親切にしてもらった。私がぼやーっとしていたので、手を掛けてやりたいという感じがしたのかもしれないが……。
 我々のころは親方とか師匠はあまりいろいろと言わない。先輩たちが教育者だった。互いに研鑛し合うというか、教えてくれる。関取衆でも最終的には先代田子ノ浦さんに教えてもらったが、その前に付いた秀湊関や平ノ戸関も引っ張り出してくれて、よく山げいこを付けてくれた。自分に付いた若者を一人前にしてやるというのは、自分の義務だと思ってやってくれたのではなかろうか。
 先代田子ノ浦さんの出羽錦関に付いたのは幕下ぐらいに上がってからだが、この人にも大変お世話になった。けいこはもとより、マナーのことや人生訓的なこともよくしゃべってくれた。
 田子ノ浦さんは外部の人には冗談を言ったりしているが、割りと気難しい人で、我々からしたら厳しい人だった。ユーモアを交えて教えたりはしなかった。機嫌の悪いおやじのような感じだった。おやじというより、本当は兄弟子なんだけれど、年も離れていたせいか、自分にはそんな感じだった。
 昔は、羽島山関、大晃関、大起関とか、皆そういうタイプの人が多かった。いちばん繊細なのは大起さんで、体はあんなに大きかったが、用事をする時にはきちっとしないといけない。厳しい鍛え方をした人だった。
 前の藤島親方の出羽湊関にもいろいろ教えられた。巡業に出て、こっちはただ漠然と駅で降りて宿舎に着く。晩になると、
「おい、何か買って来い。肉でも切って何か作れ」
 と言う。それで、どこへ行けばいいのかな、何があるかな、などと言うと怒られる。
「駅を降りた時に、ちゃんとここに魚屋がある。肉屋がある、八百屋があると見ておけ」  と。  今の若い者にそんなことを言ったって通用しない。第一すぐタクシーを使う。だが、あの時代にはそういうことまで言われたものだ。
 そして昼のちゃんこの時でも、
「むやみやたらと肉ばかり入れたら駄目。それでは東京に住んでいるのと変わりないじゃないか。この土地は何が名物なのか。そういう名物を一品でも二品でも出すような方法を取れ」
 とか、結構そういう説教もした。今はそんな説教は全くしないだろうし、私もしていないが、教育の問題は、そういう小さなことを言うとキリがないぐらいいろいろあると思う。
 出羽錦関でも、あの人は自分ではけいこを付けないけれど、先代二子山さんの若乃花関のところへ「これを一つ頼む」と連れて行ったり、くたびれているだろうなと思うと小遣いをくれたりしたものだ。
 また栃木山の先々代春日野親方、あの人が相撲の教育の問題でも、技術論でも、すごい話をしてくれた。先々代春日野親方は一行の巡業の組長をしていたし、地方場所の時なども、常ノ花の出羽海親方は協会の仕事に専念してホテルか旅館に泊まっており、部屋の方は栃木山さんに一切任せていた。
 栃木山さんは、食事をしながらいろいろと教える。給仕が一時間ぐらい。親方衆を誘って一緒に食べるのではない。たまには誘うときもあるが、ほとんど一人。そして一升酒を飲みながら相撲の話をする。横に居る者を捕まえて、こうやっておっつけるんだとか、小指を使えとか、わきはもっと諦めてとか……。おっつけだけでも一生懸命やっても三年かかると、そんな話を鼻の掃除をしながらするのだ。
 栃木山さんはまるで”宝の山”のようなものだ。栃錦の先代春日野親方は若いころから栃木山の先々代に付いて給仕をして、いちばん教えを受けたということだ。
 栃木山さんは我々のころは穏やかな好々爺といった感じだったけれど、昔は大変怖い、厳しい入だったらしい。前の山科親方、大平山関が現役のころ酒を飲んで騒いでいたら、
「うるさい、このぐうたら」
 とパッと持ち上げて、バーンと片手でけいこ場に放り投げられたそうだ。本当に力が強かったし、また相撲も強かった。先輩が、
「見て強いのが双葉関、相撲取っていちばん強いのは栃木山さん」
 と言うのを聞いたことがある。

(十七)

 相撲界内部の人以外でもいろいろ影響を受けた人は多い。
 私の場合、財界の人や画家などに話を聞いたりするのが好きだったし、いろいろ学ぶことも多かった。
 いちばん思い出が深いのは松永安左衛門さんだ。松永さんは電力界の鬼と言われた人で、また大茶人だった。長崎県の壱岐の出身で、九十六歳ぐらいまで生きた人だ。
 私が大関に上がる前は同県人の今里広記さんが後援会長をやっていたのだが、三十七年夏にあっちこっちの後援会が一緒になって全国後援会が出来た時、会長になってもらった。
 松永さんは大変スケールの大きい人だった。松永さんからはいろいろな話を聞いたが、話が気持良かった。これからの日本をどうして行くかとか、大必な視点から世界の話、地球の話とか、話の規模が大きい。スケールの大きい話を聞くと、大変気持が良く、こっちまで大きくなったような感じがした。
 回顧録を読んでみるとすごいことが書かれている。やっぱり人間はいろいろ苦労しないと成長しない。自殺するとか、自殺したいなと思うような目に会わないと、実際に刑務所へ入ったことはないのだろうけれども、荊務所の中へ入ったような経験をするとか、そういうものではないと、一人前にはなれないんだとか……。
 枢要な地位に就いても反骨精神が旺盛だったのか、お役人とけんかして逆らって一回パッと野に下ったりする。また引き戻されたりするが辞めて身を引いたりしている。その時に老子の思想だとか、いろいろと徹底的に勉強したようだ。
 何かの会合で、出席者が一言ずついろいろ格好いい事を書いたらしい。自分の順番が来て、一言書いてくれと言われて、松永先生は、「富士の山、近くに来てみればさほどのこともなし。釈迦や孔子もかくやありなん」と書いている。偉いといっても近づいてみたら、人間はみな同じ、長所もあれば欠点もある。すばらしい人間でも、みんな完ぺきじゃないという意味も含んでいるのではないか。だけど、それは自分で磨いていって、人格とかを形成していくものだというようなことを言いたかったのではなかろうか。
 松永さんはもう九十を過ぎていたから、茶人みたいな帽子をかぶって、袴をはいて、水戸黄門のような格好をして、杖をついてよく部屋にも来た。耳が遠くて、耳庵という号を持っていて耳庵九十三とか、九十五とか自分の年をつけて書いていた。
 松永さんには大関時代「克己」と揮毫した化粧まわしをもらった。私はこの「克己」という字が気に入ったし、松永先生もすべてこれだよ、自分に克つというか、辛抱というのか、それが大事だよという言葉もいただいて、私も非常に気にいっていたので、この化粧まわしを愛用した。
「克己」とは字のごとく己に克つということだけど、己に克つということは言葉では簡単だけどなかなか難しいことで、「克己」という中にはいろいろな意味が含まれている、集約されているものがある。
 相撲の場合、自分に勝つということが大事だ。自分を知り、また相手も知らないといけない。そしてまた辛抱するとか、辛抱だけしていてもいけないとかいろいろなものを含んでいる。勝負の流れもあるし、そういう時、ジーっと我慢するんだということも備えないといけない。
 また、相撲というのは一瞬だから、健康管理の面も含めて、常に土俵というものを見据えて、いろいろな物事を考えていかないといけない。私は昔はよく飲む方だったから、夜中にはこんなにあまり飲んでいたら、明日の土俵に差し支えるんじゃないか、けいこに差し支えるじゃないかと、いろいろ考える。「克己」という言葉が頭にあるとこんな考えをするようになる。もちろん思い切り飲んで発散することが必要な時もあるけれど、やはり明日のことを考えないと……。
 まあこの「克己」という言葉は相撲はもちろん、日常坐臥、人生全般について大事だ、己に克つことによって、初めて自らの道を拓いて行くことが出来るのだと思う。
 松永安左衛門さんの関係で、芙容会など財界の人と会う席が多かった。日本精工の今里広記さんもいろいろ話を聞かせてくれた。今里さんの関係でもたくさんの人に会った。水野成夫さんにも度々会った。あのころは自分に聞く能力もなく、話をあまり理解出来なかったが、今だったら、少しは理解できるから、今そういうことがあったらいいと思うが……。
 そのほか九州電力の瓦林潔さんや九州で事業をしている田口一幸さんなどから聞いた話も、結果として私を啓発してくれたように思う。有名人でなくても、そういう人とよく会ったことが、自分にとって役に立っているのではなかろうか。
 松永先生、今里さんばかりではなくて、昔の財界の人は、横綱、大関をよく料理屋などに招待してくれた。ただ飲み食いだけじゃなくて、そういう人たちの話を聞いていると、特に政治、経済のことが分かるというのではなくて、説教しているわけではないのだけれど、ああ、人格者というものはこうなんだというのが分かる。そういう座敷で食事したりするのは決して無駄ではない。財界の人とかと居るのは確かに窮屈は窮屈だ。だけど見習うこともいっぱいある。  自分の弟弟子など、自分がわがままを言える者ばかりとつきあって、おい、コラーっとか言う者相手だと気が楽だろうけれど、やはり尊敬に値する人とつきあって見習うことが必要だ。
 今は様変わりして財界の大御所もすぐ帰って老妻と二人で飯を食ったほうがいいことになっているようだし、健康のためにはその方がいいのかもしれない。しかし私はやはりそういう場に呼ばれて、いろいろな人の話を聞いたりしたので、人間的な幅が広がってきたと思う。横綱大関になってそういう機会に恵まれてよかったと思っている。
 画家では堅山南風さんとは人を通じて知り合ったし、前田青邨さんとは柳橋の亀清桜などで度々席を一緒にした。青邨先生はもともと武蔵川親方とは旧知の仲で、青邨さんが出羽海部屋の絵巻を描かれたことがある。私の現役時代のことだが、朝早く部屋に来て、玄関から土俵とかふろ場、それに序二段とか新弟子とか部屋の生活を描いていた。
 青邨先生は天衣無縫とでもいうか、子供のような人だった。大画伯にこんな言い方をしては失礼だが、いろいろしゃべってみたり、質問するのでも好奇心が強い。世俗的なことは全くしゃべらない。お金の計算なんかはしない人ではなかったか。世俗的なことは奥さんが牛耳っていた。奥さんは荻江露友といって、荻江節で有名な方だった。

(十八)

 岳父に当たる武蔵川親方とは、現役のころはほとんど話す機会がなかったし、同席して食事をしたこともなかった。今の若い者が聞いたらびっくりするだろうが、当時は皆そうだったのではないだろうか。私が武蔵川親方からいろいろな話を聞いたり、教えられたのは、辞めて出羽海となり、部屋を継いでからのことである。
 武蔵川親方は威厳のある人だった。時には冗談を言ったりしたけれども……。
 親方はよく常陸山の話をした。あれは教育のつもりで言ったのかもしれない。自分も常陸山にあこがれており、常陸山のようになりたいと思っていたようだ。相撲協会も常陸山のようなやり方でやっていきたいと思っていると言っていた。そしていつも相撲協会の在り方に思いを巡らせていた。
 なんにしても経済が大事だということ。力士が安心して土俵に打ち込めるようにするには、やっぱり経済だ。例え話で、新聞だって幾ら立派な記事を書いても、経営が行き詰まれば、何にもならない。そういう話はよくしていた。
 昔の話もよくした。昔といっても、相撲でだれが勝った、負けたではなくて、国技館を造った時のことを面白おかしく話したり、戦後すぐ大阪の先発に行った時の苦労話などを聞かされた。
 本もいろいろ読んでいた。中国と国交回復して中国公演が実現したころには、中島健蔵さんの「後衛の思想」を読んだり、広く教養書にも目を通していた。しかし、おやじからこんな本を読めと言われたことはない。
 おやじはやはり経理とか、そういうことに天才だった。それと大変博学だった。
 着物のことなんかに趣味があって、実に詳しかった。今だったら大変な値段になるようないい着物をたくさん持っていた。私なんかは全然体型が違うので着れないけれど……。また、私はそういうことはやらないが、おやじは浴衣のデザインなんかも自分でしていた。着物や洋服の生地を選ぶのも自分でしたし、市川に住んでいたころは料理もよくやっていた。前掛けをして、
「お前たちが作ったものは食えない」
 とか言っていた。実に器用だった。ふぐでもなんでも料理はうまかった。特にだれから習ったというわけでもないだろうが……。
 おやじは美術の方面にも詳しかった。絵は結構持っていたのではなかろうか。琳派のものが好きで、宗達の兎の絵は大切にしていた。現代では、小林古径、前田青邨、安田靱彦や奥村土牛など院展系の画家、洋画家では梅原龍三郎、安井曽太郎、中川一政といった人の絵.が好きだった。特に青邨さん夫婦とはおつきあいもあり、親しくしていた。
 おやじは青邨さんの若い時描いた絵を持っていたが、ある展覧会の時その絵を貸したところ、そのまま返してくれない。あれは若描きで出来が悪いからということだ。ではその代わりに何か描いてほしいと言ったら、部屋の絵巻を描いて院展に出品し、その作品をくれたと言っていた。靱彦の描いた双葉山と男女ノ川の神相撲の絵があって、双葉山の時津風さんにあげようかなどと言っていたが、その後相撲博物館に寄付した。
 おやじは暇があると美術館やデパートの美術展によく通っていた。晩年は美術鑑賞を何より楽しみにしていたようだ。
 私もまだ足元にも及ばないけれども、ロンドンに行った時には大英博物館に行ったし、またナショナルギャラリーには二回行った。時間を作って絵を一生懸命見ていたが難しい。一回説明を付けてしまったら、三時間ぐらいかかった。それでまだ駄目だなと思って、今度は案内もなく、自分一入で行って、再確認の意味で見てきた。それにしてもたくさん有りすぎる。
 プラド美術館ものぞいて来たけれど、絵を鑑賞するのもなかなか難しいものだ。それに向こうのは油絵で、血を流したりしている絵も多いし、ちょっと食傷気味になる。
 プライベートでイタリアのフィレンツェへ旅行した折、ウフィッツィ美術館に行き、アッシジの聖フランシスコ教会のジオットのフレスコ画などに感動したが、ギリシヤ神話やキリスト教、それに貴族のことが分からないと理解しにくいところがあるのではなかろうか。武蔵川のおやじが琳派や院展系の日本画を好んだというのも分かるような気がする。
 おやじは芝居も大好きで、歌舞伎にもよく行った。
 おやじは昔は大酒飲みだったらしいけれども、待に酒が好きではなかったらしい。つきあいだから飲んだのだろう。飲めばボトル一本や二本は空けた。晩年はワインを少し飲んでも真っ赤になって、それ以上は飲めなかった。
 私の現役時代、おやじのところに記者の人とか堅苦しくなくて訪ねて来る人が居た。おやじがそんな人たちと話を交わしているのを聞くのが好きだった。私はたまに質問するのだけれど、時事評論などをしていると面白かった。食事の最中に言いたい放題で、天下国家のことなどを話していて、それがとても楽しかった。
 それと無駄ではなかったと思ったのは、大関で休んだ時があったが、そのころからよく本を読み出して、興味をもって来たことだ。読書に興味を抱いのは視野を広げるうえで自分では一番大きかったと思う。最初は見舞いに来た人が、これを読んだらと言って、本を持って来てくれたのがきっかけだ。
 その本は井上靖の「蒼き狼」だった。チンギスハーンの話で、すごいなと思った。それから、もらったもので、尾崎士郎の「雷電」を読んだりした。そのうち、日本の歴史物、とりわけ信長、秀吉、家康だの、山岡荘八の本を片っ端から読んだ。「三国志」を読んだり、「十入史略」を読んだり、色気のあるものでは「金瓶梅」を読んだり……。司馬遼太郎の作品はほとんど読破した。中でも「坂の上の雲」には大変感銘を受けた。
「旧約聖書」を読んだけれど、三分の一も理解出来ない。一ページ読んでも眠くなる時もある。キリスト教をもっと理解しないと、いきなり入ってもちょっと分からない。しかし読んでいるうちに面白くなってくる。西洋の本を読むにはやはりキリスト教の基礎知識
が必要なのではないだろうか。
禅とはどんなものだろうと、禅の本を読んだこともある。何か一冊読むと次々と興味がわいて来る。
 それにいろいろ本を持ってきてくれる人も居る。また冗談で私の方から、
「せっかく会いに来たんだから、土産は何かね。わしは金めのものは要らないよ。情報でもいいし、こんな本を読んでおけよというのがあったら、ひとつ頼みますよ」
 などと言ったりすることがある。
 一冊もらって読むと、それと関連する本を次々読みたくなって、続いて読むようになる。
 映画にも結構行く。最近では「おろしや国酔夢諦」。あれはロシアのことに興味があって、井上靖さんの本も読んだこともあるものだから。そのほか「アマデウス」「ラスト・エンペラー」とか、「ダンス・ウイズ・ウルブス」なども人種問題を引っ掛けたような感じで面白かった。