【第三回】克己 出羽海智敬自伝

出羽海部屋 背景色

(七)

 昭和三十年の暮れ、出羽海一門の一行とともに上京した私は、翌三十一年一月六日、新弟子検査に合格、初場所初土俵を踏んだ。十七歳と十か月、身長五尺九寸一分(一八〇センチ)、体重十九貫(七二キロ)だった。
 戦後になって途絶えていた前相撲がちょうどこの場所から復活した。だから私は前相撲復活第一号の新弟子というわけだ。それまでは新弟子も割りで取らせていたのだが、この場所からは戦前と同じような制度となって、前相撲は飛び付きで二番連続して勝って星一つ、星を二つ取って本中に進む。そして本中でも星を二つ取ってやっと新序に出世するのだ。その後四十年代の終わりに、新弟子の数が減ったことと、飛び付きでは危険だということもあって、現在のような前相撲形式となった。私は初土俵を踏んだ三十一年の初場所で二番出世を果たし、次の三月大阪の春場所で初めて番付についた。
 私がデビューした昭和三十一年は、初、春、夏、秋の年四場所で、翌三十二年に九州場所が増えて五場所となり、次の三十三年から名古屋を入れて、現在のような年六場所になった。
 当時の出羽海部屋は横綱の千代の山関以下関取衆だけでも十四、五人は居り、力士の総数は八十人以上だった。一門の春日野部屋や三保ヶ関、小野川部屋も加えると優に百五十人を超す大世帯だった。
 部屋には五島出身の力士も多く、私と一緒に福江市から津渡というのが入門している。幕下上位には私と同じ中通島の有川町の鯛ノ浦出身で五ツ潟という力士が居た。五ツ潟は本名を坪井といい、間もなく十両に上がったが、年齢は私より二つか三つ上だった。私はよく五ツ潟の勧めで入門したと言われたものだが、実際はそうでなく、前回に書いたとおり、私に角界入りを勧めたのは、あくまでも学校の先生である。ただ五ツ潟のことは、有川中学に居るころから知っていた。私が一年生のときにあの人は三年ぐらい。もし私の記憶違いでなければ、既に小学校のころ、あの人が相撲を取っていたのを見たような気がする。
 五ツ潟はそれほど体は大きい方ではなかったが、相撲は強かった。どちらかと言えばガラの悪い方で、いわゆる餓鬼大将タイプだった。
 この五ツ潟をはじめ、私が入門したころ、部屋には同期の津渡も含めると確か十人ぐらい五島出身の力士が居たのではなかろうか。津渡には兄貴が居て、福ノ島というしこ名で幕下で取って居た。福ノ島は私より四つか五つ年上だった。
 そうした故郷の先輩たちに恵まれたお陰で、私はけいこ場で「来い、来い」と引っ張り出された。
 五島出身の力士といえば、部屋の大先輩の大関五ツ嶋関が最も有名である。五ツ嶋関は本名を金崎伊佐一といい、しこ名は五ツ嶋奈良男、私と同じ中通島だが、奈良尾町の出身である。
 奈良尾町は中通島の南端で、島の北部の私の有川町からは、三十キロ。以上も離れており、しかも当時は普通舟でしか行くことが出来なかった。一度親父と一緒に、五、六時間もかけて歩いて行ったことがあったが、それこそ山の中の道なき道、けもの道とでもいうか、断崖絶壁、ほとんど通れないようなおっかない道だった。もっとも今では舗装道路でつながっており、車で三十分ぐらいで行けるようになったが……。
 五ツ嶋関は戦前の強豪力士で、”けいこ場横綱”と言われ、部屋のけいこ場では横綱安藝ノ海関も勝てなかったという。巌のような体で、ちょっとやそっとぶつかって行ったぐらいでは一歩も下がらない。土俵中央で受け止められ、くるっと巻かれてしまう。全盛時代の双葉山関を本場所で二連破した記録も持っている。大関になってすぐにひざを痛 めたのが原因でやめてしまったが、ひざさえ痛めなければ横綱になったのではないだろうか。
 やめて一度郷里の方に帰っていたが、私が入ったころは東京の永代橋の近くの新川で料理屋をやっていた。そこで私も何度か会ったことがある。
 戦中戦後に切れ昧鋭い投げ技を武器に活躍した五ツ海関も同じ奈良尾町の出身である。本名を松竹義雄といい、出羽錦関、先代の田子ノ浦さんより一場所先輩、入十五、六キロと体は細い方だったが、大変運動神経がよくて、わずか三年で関取になった。ちょうど若嶋津みたいな体つきだったらしい。投げの切れの良さは今でも語り草になっている。田子さんがよく、あんなに運動神経のいい者は居ない。泳いでも上半身丸出しでクロールする。それでも沈まない。胸を出してもきれいだった。絵になるんだよ、と言っていた。
 三役は小結一場所だけだったが、解説をやっていた神風さんとの投げの打ち合いは、毎場所土俵を沸かしたそうである。
 戦後幕内に上がった五ツ洋関は本名を高木義一といい、私と同じ有川町有川の出身である。一七〇センチ、八〇キロ足らずの小兵だったが力が強く、右からのひねりが得意で、ずぶねりなんかもやった。左ひじを痛めて上位へは上がれなかった。この人も私が入ったときはもう居なかった。私が入門する一年半ほど前にやめたということだ。
 私より前には五島から相撲取りになる人が多く、その大半は部屋の先輩で、五ツ嶋関、五ツ海関、五ツ洋関、それに五ツ潟と関取も輩出したが、私が引退した後は五島から力士になる者も少なく、今は相撲熱が冷めてしまったようで寂しいことだ。
 五島では、ちょうど私が上がるころテレビの普及がすごかった。私が島を出てきたころ都会ではテレビが急速に普及したのだが、田舎なので都会より遅れており、向こうでは私が出て来て一、二年してやっと電気が一日中つくようになり、私が幕内に上がった三十六年ごろになって、テレビが急に売れ出したというわけだ。

(八)

 私が入門したころ、当時三段目でその後幕下になった本名を神田剛といって、やはり五島の小値賀町出身で常晃という先輩が居た。この人は餓鬼大将みたいな人で、鬼軍曹といった感じだろうか、気性の激しい人だった。
 今は神奈川県大和市でちゃんこ料理店「神田」を経営しているが、この常晃さんが私に大層目を掛けてくれた。常晃さんはよく私を引っ張り出してけいこをつけてくれた。後輩の躾けに大変厳しい人で、口より手が早い方だった。その代わりまた優しいところもあった。
 私が初めて本場所を迎えた前相撲のとき、前の晩に常晃さんが「明日が初日だからな。まわしを持って来い」と言う。魂を入れるんだと言って、塩を入れて清めてくれた。それにはホロッとさせられたものだった。
 常晃さんは機会あるごとに私を引っ張り出してくれた。後にこっちが強くなってきたので、もうけいこはつけないからいいと思っていたら、巡業中など、今度はよその部屋の力士を引っ張って来て、「これにけいこをつけてくれ、おれの手に負えないから」と言い出して、目を掛けてくれた。
 それで柏戸さんが十両ぐらいのときよくけいこをつけてもらった。常晃さんは柏戸さんと同期生で、三段目か幕下ぐらいのとき、柏戸さんにケンケンで勝った一番があって、今でも自慢している。だから柏戸さんもよく知っているのだ」。
 常晃さんは二十歳ぐらいになってから相撲界に入った人で、いわゆる銀流しというか、遊び上手の人だった。この人については「冊の本になるくらいいろいろエピソードがあるが、若いころ大変お世話になり、現在でもおつきあいをしている。
 私は入門したてのころ、こっちは高校を出ているし、父親の手伝いもしていたから、少々の力仕事は平気だ。ところが周りは中学を卒業したばかりで、みんな私より二つ、三つ年下の者が多く、皆何か弱々しく見えた。明け荷を担いでヨロヨロしている者が居る。何だ、だらしがないなと思った。だから私はよく「おいっ」って、明け荷なんか担いでやったものだ。そんな連中にはその時だけは感謝されるだけど、あとは何かと意地悪してくる。
 年が違っていたせいか、相撲を取っても最初一か月そこらで、ちょん髭を付けている相手に「行け」と言われて、けいこをしても結構いい勝負をしたものだった。
 私が入門した時の出羽海一門は何しろ大勢だった。序二段あたりで四、五十人ぐらい居た。だから部屋ではけいこらしいけいこはそんなに出来ない。我々のころは序二段以下は飛び付きばっかり。ぼやっとしていたら一日一番で終わる時がある。全く出来ない日もあった。四、五十人でわあっともみに行って、相手が買ってくれればいいけれど、負けたらしばらくは行けない。そのまま一丁上がりだ。
「けいこで番数がやれなくても、その代わりしこと鉄砲をしっかりやっておけば大丈夫だから」と、先輩がヒントを与えてくれた。「やれない時はしこを踏んでおけばいいんだよ。しこを踏んでいたら三段目ぐらいになれるよ」と。もうしようがないから、しこばかり踏んでいた。
 特に鉄砲の方をやかましく言われて徹底的にやった。そのうち手のひらに豆が出来て、血が出てくる。「これを我慢しろ」と言われ、血がしたたり落ちるほど、それだけ正直に毎日やった。しこも踏んだけれど、鉄砲は自分でも本当によくやったと思う。
 強くなったのは巡業の山げいことかで、先輩が引っ張り出してくれてやったのと、鉄砲を怠らずにやったのがよかったと思う。東京に帰ってきたら、場所前の十日から場所中は、序二段以下はほとんど出来ない。二、三番やればいい方、今日はよく出来たという日で五、六番だ。それも飛び付きでボーンとぶつかって、バーンとやられるだけだった。
 けいこは朝五時ごろから始めるのだが、皆と一緒に起きていたのではなかなかけいこが出来ない。そのうち要領を覚えてきて、ちょっと他人より早く起きればいいんだということが分かってきた。  これではいかんと思うと、毎日ではなくても、たまに兄弟子を誘って、人より一時間早く、四時に起きてやる。毎日だったら疲れるから、今日はけいこ出来なかったなと反省した翌日にやる。そういうふうに自発的にやったのが自然と身に付くものだ。
 だから相撲はけいこしないといかんけれど、心構え一つだ。出来なければそれなりにやり方があると思う。
 部屋は人数が多いのでけいこもなかなか出来なかったが、日常生活の面でも大変だった。九州場所、福岡の東公園の宿舎では寝るところがなくて、板張りの入り口近くに寝たりした。夜具も無いから、先に寝た者の布団が夜遅く帰って来た者にいつの間にか?がされている。ひもで縛っておいても、先輩がそれをちょん切って持って行って
寝てしまっているから、こっちは寒くて仕方がない。遅く帰って来た者がみんな追い剥ぎみたいに布団を剥いで行くのだ。

(九)

 私の場合は下の時分あまり目立つ方ではなく、特に有望力士というわけでもなかったので、割りとのんびりしていた。けいこはまあ一応やることはやったんだけれども、特に人並み以上にやったというわけではない。だから体を壊していなくてかえって良かったのかもしれない。
 序二段あたりまでは部屋に帰って来たら、二、三番しかやれなかった。ただしこと鉄砲だけだった。三段目になってからはやややるようになったけれど、それでも部屋の中で十番も出来なかったんじゃなかったか。
 相撲ぶりも、若いころは右半身で、柔道みたいに一本乗っけたり、相手が切り返しに来たら河津掛けみたいなことをやったりしていた。しぶとかったけれど、腰投げみたいな右からの下手投げが多く、そればかりやっていた。
 私は後に出羽錦関に付いたが、三段目から幕下のころには平ノ戸関に付いていた。平ノ戸関は長崎県平戸の出身で、同県人ということもあって親切にしてもらった。
 幕下に上がったころ、平ノ戸関から「お前、突っ張れ」って言われた。巡業先でも平ノ戸、秀湊などという関取が引っ張り出してよく山げいこをつけてくれた。いつも背中を 流したりしていたから、これを一人前にしてやろうという責任感もあったのかもしれない。
「お前は突っ張らないと幕内あたりには行けないよ。右一本で相撲を取っていたら駄目だよ」
「突っ張れ、その代わり徹底しないと駄目だ。相手が落ちそうになっても引かないで上げるように。四つになって勝てるような相手にも押して行け。徹底してみろ」
と。
 その前にも多少は突っ張ってはいたんだけれど、そう言われたのが一つの区切りになった。八十キロぐらいから太らず体も細いし、自分でも、一つ突っ張りに徹してけいこしてみようという気になった。
 もう一つ私をその気にさせたのは、けいこ場でのささやきが耳に入ったことだった。
 長崎県出身で元両國の待乳山という体の小さい親方が、けいこ場の上がり座敷でささやいているのが聞こえた。
「あれは突っ張った方がいいんじゃないかな。あれは足腰がいいじゃないか。ひょっとしたら強くなるんじゃないか」
 けいこ場で先輩が正面からは褒めてくれなくても、親方衆や先輩の「ささやき」には敏感だ。たまにでもそんなささやきが耳に入るのは気持いいものだった。
 けいこ場で突っ張ると案外相手に楽に勝てる。徹底して突っ張るようになってから、自分でも相撲がちょっと面白くなってきた。
 私は自分なりにコツコツ一生懸命やっていたんだけれども、下の時分にほとんど大勝ちしていない。当時は八日間相撲を取って二点勝ち越しとかが多かった。負け越しはなかったが、大勝ちの場所が少なく、五分が続いたこともある。下位で優勝した経験もない。まあ力に合わせて上がっていたのではないかと思う。
 体も大きくならなかったし、一度も負け越しはなかったといっても、十両まで四年かかっている。有望な者はみんな二年かそこらで上がっている。あのころはよその部屋に破竹の勢いで出世した者が居た。開隆山なんか本当に早かったし、大鵬さんをはじめ宇多川、千葉といった羽黒花、それに清国なども後から追いかけてきた。だからみんな私のことなど気づかなかったんではないか、目立った存在ではなかったのだから。
 私が幕下上位で十両も間近まで来た時でも、周りは「あれっ、もうこんなところまで来ているのか」という感じがしたのではないだろうか。
 それが三十五年の春場所、十両にポンと上がったら十一番勝った。みんなに「あんなのは五、六番で終わるよ」と言われていたのだけれども、突っ張っていると、不思議に場所になったら勝てる。
 そして十両に上がってからは本格的に鍛えられた。また大変環境にも恵まれていた。部屋では千代の山関が引退して出羽錦関や羽島山関が既にベテランの域に達しており、ほかにだれも居なくなった。だれかが居たら私はそんなにやっていなかったかもしれない。ちょうど自分でもけいこが少し面白くなってきたこともあって、「やれ、やれ」と引っ張り出され、長くぶつかりをさせられた。
「おれは見込みがあるのかな。付いて行くようにしなくちゃ」
 と、自分から飛んで行って自発的にやるようにもなった。
 若い時あまりやっていなかった私が、本格的にけいこを始めたのは十両あたりからである。やがて幕内に入るころは、栃光さんとか、栃ノ海さんと三人がライバルと言われるようになる。けいこ場で三人で激しい申し合いを続けた。これが良かったのではないか。私の場合、何と言っても非常に環境に恵まれていたと思う。
 私は入門以来ずっと佐々田の本名で取っていたが、幕下に入ってしばらくしてから佐田の山と改名した。
 部屋でしこ名を変えたからと言われ、十人ぐらい紙に張り出された。何か張ってあるなと見に行ったら、佐々田→佐田の山とある。北の富士の竹沢は当時序二段か三段目ぐらいだったろうか、竹沢から竹美山に変わっていた。それから嶺本が嶺の本、福島が福の花となっていた。改名を張り出された者が十人ぐらいそろって師匠常ノ花の出羽海親方のところへお礼に行った。「ありがとうございます」と。
こっちは佐田の山なんて安直につけられたようで、あまり気に食わないからブスっとして行っている。すると肚(はら)の中を見られたのか、師匠は、
「これはちゃんと易で見てもらった名で、いい加減に付けているんじゃないんだから」と言う。
「はい、ごっつあんです」
 と帰って来たが、どうもあまりいい名前ではない。みんな不服そうだった。
 五島の出身で「五ツ何とか」っていうのも、もう大勢居たからそれも付けたくなかったし、大体私はしこ名をいじるのはあまり好きな方ではないので、そのまま佐田の山で通すことになった。
 改名して最初の一場所だけ番付は片仮名で佐田ノ山となっていたようだが、これは行司が間違って書いたのか、印刷が間違ったのかだろう。大関になってスランプだったとき、佐田乃山照也と変えてみたことがあるが、何場所かで佐田の山晋松に戻っている。